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西晉「儒教国家」と貴族制

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  • TA的每日心情
    开心
    2013-4-7 15:12
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    [LV.1]初来乍到

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    楼主
      【結論】より
      「儒教国家」とは、後漢以降の中国国家が、儒教の理念に依拠して支配体制を正統化することを表現するための分析概念である。(中略)儒教によりその支配を正統化される皇帝が、儒教の教養を持つ文人官僚と、その出身母体である在地勢力を利用した支配を行う、という伝統中国に固有な国家体制は、道教や仏教の隆盛後も引き継がれていく。西晉を建国する司馬氏は、曹魏に対する「名士」の反発を束ねて権力を掌握するなかで、「儒教国家」の再編を行っていく。本書で解明したように、西晉「儒教国家」では、国家の統治政策が経典の典拠を持つに至るのである。 一方、三国時代の支配階層であった「名士」は、西晉において貴族へと変貌する。中国の貴族制は、官僚制でも封建制でもなく、身分制として皇帝権力により編成された。国家的身分制としての貴族制は、五等爵制や士庶区別により皇帝が作り上げた国家体制の一部なのである。したがって、西晉「儒教国家」の国家体制を正統化する一環として、儒教は貴族制をも正統化する。そのための理念が「封建」である。始めて貴族制が成立した西晉の五等爵制以降、両晉南北朝の貴族制は、「封建」という儒教の理想的な統治理念に沿うものとして正統化された。「封建」という理念が、社会の分権化に対して、君主権力を分権化して、国家権力全体としての分権化を防ぐに足る内容を備えていたからである。ところが、西晉「儒教国家」は、太康元(二八〇)年の三国統一の後、わずか十数年の安定期を持つだけであった。八王の乱が勃発し、続けて起こった永嘉の乱によって西晉は滅亡、かろうじて司馬睿により、建武元(三一七)年に東晉が建国される。西晉滅亡の原因は、恵帝の不慧に帰せられることが多い。
      しかし、滅亡の本質的な理由は、西晉「儒教国家」の限界、さらには国家の支配理念としての儒教そのものの限界にあるのではないか。
      本書は、以上のような研究動向と問題意識のもと、西晉「儒教国家」と貴族制の形成、および西晉「儒教国家」の崩壊と儒教の限界を思想史を中心に解明したものである。

    作者简介
      渡邉義浩,東京生まれ。筑波大学大学院博士課程 歴史人類学研究科修了。文学博士。専門は魏晋南北朝史。三国志関連の著作活動多し。


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